特集 職人の仕事

発行:No.1067 平成17年2月24日発行(2)

特集 職人の仕事

職人の仕事
ものづくりへの思いを追って

現在の日本は、大量生産・大量消費社会と言われて久しい。
いま、わたしたちの周りにはものがあふれている。
しかし、大事に使われているものは少ない。
かつて、わたしたちの生活は職人の技によって支えられていた。
職人の作ったものは大事に使われ、ものに人の温かさが込められていた。
職人はいまよりずっと身近な存在だった。
しかし、生産の効率性が優先される時代、職人は減り、その技も消えている。
そんな時代に、いまも、ものづくりに励む職人を取り上げる―。

樽職人(能代製樽所)
桜庭功さん

若い職人の手本として
 終戦間もない昭和23年。15歳だった桜庭さんは樽職人の世界に踏み込み、修行を経て、28歳で能代製樽所に入りました。以来、今日まで、その手で何万樽という樽を作り出してきました。
 71歳となる現在、第1線は退いたものの、月・火・木・金の週4日の午前中、能代製樽所で樽作りに精を出しています。
 ここで働く若い職人は、ベテラン職人の技術を間近で見ることができ、わからないことは聞くことができます。貴重な技が、後継者不足や職人の高齢化により、継承されず消えていく。そんな時代にあって、桜庭さんの存在は貴重なものとなっています。

父親の影響でこの道に
 父親は山から木を切ってきて、樽の側面に使えるまで加工する樽丸職人。子どものころから職人の仕事を身近で見てきた桜庭さんにとって、「職人という道を選んだのは自然なことだった」と言います。
 当時は、木材産業が元気だった時代。市内では、桶樽、柾割り、製材が木材関係の主な働き口だったそうで、市内に桶樽業者は数十件もあり、能代は全国的にも有名な桶樽の産地でした。

樽作りの昔と今
 昔から樽作りは、木に対する知識と技術を要す仕事で、作業のほとんどは、人の手で行わなければなりません。そんな樽作りにも現在は、一部に機械が導入されています。
 すべて手作業でやっていた時代を過ごしてきた桜庭さんは「今はとにかく骨を折らなくなった。機械が入る前はひとつの樽を作るにも労力や時間は、今の倍以上かかった。昔は真冬でも、体から湯気が出て、シャツ1枚にねじりはちまきでやったもんだ」と言います。
 さらに今と昔の大きな違いは給料体系にあります。「今は一日いくらの月給制。昔は、一樽いくらの歩合制。だから一日に作れる樽が多い職人ほどお金ももらえたし、周りからも一目置かれました。昔は、とにかくみんな競うように樽を仕上げたもんです。今の若い人もまじめに一生懸命やっているが、昔は職人にもっとハングリー精神があった」と言います。

変わらない日々のなかで
「職人の世界は一日一日が同じことの繰り返しだ」と桜庭さんは言います。毎日毎日、同じ作業を通して磨かれた技術。それは桜庭さんにとって大きな誇りでもあります。
 合成樹脂製品の登場や生活スタイルの変化で、木樽は各家庭で見ることはほとんどありません。「今は、職人の技が見えない時代。それが社会の流れだからね。仕方がない」と桜庭さんは言います。 
 しかし、木樽は、いまでも酒造会社や居酒屋からの需要があるほか、注文数は減りつつあるものの、漬け物樽として使いたいという、個人のお客さんの声もあります。
「ここでは、若い人たちがいるのでこれからも樽は、ずっと作られていくでしょう」。黙々と作業をする桜庭さん。その技は、時間をかけながらも、着実に次世代へ引き継がれています。

鍛冶職人(重藤刃物製作所)
佐藤良助さん

今では市内でも稀少な鍛冶屋
 佐藤さんは、73歳になる鍛冶職人。15歳で弟子入りし、10年ほど西木や六郷の鍛冶屋で修行。そして、25歳の時に能代に来て、『重藤刃物店』で働き始めます。
 包丁などの家庭用の刃物のほか、農耕用のくわや鎌、大工道具などを手がけてきました、昔は、今とは比較にならないほど、注文も多かったといいます。かつて佐藤さんの作る刃物は、神社や寺の屋根葺きに使うため、遠くは奈良まで出荷していたそうです。
 鍛冶の仕事というのは、昔はすべて手作業でした。「鉄は熱いうちに打て」という言葉があるように、炉で真っ赤に熱した鉄を取り出し、すぐに叩かなければなりません。そのため作業は最低2人がかりでした。
 しかし動力のハンマーが導入されてから一人で作業ができるようになりました。ここでは30年前に導入した機械が今でも現役で働いています。

厳しい修業時代のこと
 現在こそ、無理のないペースで仕事を続けていますが、早朝4時から夕方6時まで何十年もこのペースで働いてきました。
「修業時代は1年の内で休みは盆と正月、それにお祭りのときだけ。日曜日もなかったですね」。「住み込みで働いていたため、飯はタダ。でも給料なんてものはなく、せいぜい床屋に行くための小遣いをもらえる程度。昔は弟子のうちはそれが当たり前だったもんですよ」。
 修行中の佐藤さんにとって、親方が仕事を休む日は、炉が空く貴重な時間。そんな時間を利用し、親方の作業を再現しながら、技術を身につけていきました。

変わる時代と変わらない信念 
『重藤』に入ったときは、市内に10軒あった鍛冶屋も今は見なくなりました。競争相手がいないのは張り合いがないと佐藤さんは言います。
「木も陸ではなく海から来る時代。時代は変わりました。包丁を使う機会も減っているでしょう。コンビニに行けば、調理したものが買えるし、スーパーでは、切られた魚や野菜が売っていますから。刃物にこだわる人が減ってきました。包丁をしっかり研げる人も少なくなりましたね」。
 今は、どこかで大量生産されたものが手軽に手に入る時代です。しかし、「大量生産された包丁は消耗品。職人が作ったものは、手入れさえしっかりやれば一生使える」と佐藤さんは言います。
 鍛冶屋が作ったものはお客さんとの直接のやりとりだから、ものに納得してくれなければ二度ときてくれない。職人に手抜きは許されない。佐藤さんの信念です。

ありがたいお客さんの声
 いまでも重藤の刃物を愛用する根強いファンは多く、なかには何十年も前の包丁を大事に使ってくれるお客さんもいます。しかし、残念ながら佐藤さんに後継者はいません。お客さんからは「いなくなれば困る」といわれることもあります。「そういう声があるうちは、できる範囲で続けていきたい」と穏やかに答えてくれました。

目立て職人(宮腰目立加工所)
宮腰光人さん

師匠を真似て覚えた弟子時代
 どんなに素晴らしいものでも、鋸は使うとすぐに摩耗してしまいます。目立てとは切れ味の悪くなった鋸を研ぎ、アサリを修正して、切れ味を復活させる仕事です。
 昭和25年、中学を卒業と同時に宮腰さんは市内の木材会社に入りました。そこで、自転車で鋸を運ぶ仕事をするうちに、丸太と格闘するよりも目立てのほうが自分の小さい体に合ってると思い、目立ての道に入りました。
 師匠は、口で教えてくれなかったため、普段、師匠がやることを、真似しながら仕事をしました。技術以外でも真似ることが多かったそうです。
「そのころは、技術は、簡単に外に出さないという世の中だったため、目立て場に知らない人は入れませんでした。当時は、本もなく、目立ての情報が手に入りやすくなったのは、弟子を終わってからです」。

壁を越えるのに10年
 見習いを終えてからは、毎日、朝6時前の汽車に乗り、津軽のほうで4年間、仕事をしました。
「そのころ、仕事で壁に当たり、常に頭の中からその事が離れませんでした。師匠が早くに亡くなり、兄弟弟子に聞けるような環境でもありませんでした。鋸のあさりを出す機械の調整方法だったのですが、乗り越えたのは10年も経ってからです。ある時、ふっとひらめくものがありました」。

今は人も仕事も減りました
 宮腰さんの現在の仕事は、帯鋸の研磨が主体となっています。帯鋸とは、1周が数メートルにもなる製材所などで木材加工機械に使用する工業用の鋸で、機械を使って研ぎます。
 研ぐ音で仕上がりがわかるそうで、ひとつの帯鋸を、だいたい15〜20分で仕上げるそうです。
「昔は木材会社だけで何千人も働き、目立てだけで200人もいました。仕事も朝から晩までありました。今は同業者も少なく、仕事は半日で終わります。やめようと思った時もあったほどです」。
 
帯鋸に技術が現れます
 どういう木を切るかによって、帯鋸の厚みや刃の間隔が違ってきます。メーカーからは、鋸の元となる150〜200メートルの薄く長い鉄板がコイル状になって届きます。始めに、それを注文元の木材加工機械に合うように、幅や長さを切断します。次に鋸の刃をつくり、最後に帯状になるように溶接します。
 どの工程もしっかりやらないと、鋸の強度が落ちたり、あとで研磨がうまくできなかったりします。冬期間は木が凍ってしまうため、鋸が精巧にできてないと、あさりを小さくしても引けなくなってしまいます。
「高価な機械を置いている人は、やり方が違いますが、鋸に対する基本的な考え方は今も昔も同じです。機械化が進んでも最後に鋸を作るのは目立て屋です」。

使う人の評価が一番です
 作業するうえで最も大事に思っているのは、仕上げたものが使用に耐えうる完璧なものであること。ほかの業種の職人は作ったものが残りますが、目立ての仕事は外見からは判断できません。実際に鋸を使っている人の評価を最も大事にしています。
 この仕事には『これは俺しかできない』という誇りや満足感を感じています。
「新しい機械がどんどん出てきますが、それに負けるとは思いたくありません」。
 人の感覚や判断力にはすごい力があると宮腰さんは信じています。

宮大工(みや建築)
伊藤實さん

きっかけは丁山と出稼ぎ
 伊藤さんは、市内の建設会社に入り、大工仕事をしているうちに、後町組と上町組の丁山の山車を作る機会に恵まれました。また、出稼ぎで京都や姫路に行ったとき、伝統建築を直に見て回り、宮大工の世界に興味を持ちました。
 興味を持ってからは、今は亡き師匠に追いつきたいという一心で仕事に取り組んできました。
「技術向上の面では師匠を越えたいと思っていますが、師弟の関係は一生変わることはありません。今は職人の世界から義理人情が消えつつあります。でも人間関係が一番大切だと思っています」。

今は伝統建築物の建て替え時期
「昔は宮大工としての仕事の量が少なく、一生に一つか二つできればと思っていましたが、今は伝統建築の建て替え時期です。設計から木ひろい、原寸、墨付け、彫刻も含めてやれる職人は、市内にはほとんどいません。結局、ここに職人がいなければ、よその職人が建てることになります。地元の建物を地元の人が造れないのは残念なことです」。

最近の仕事は淨明寺と学校
 伊藤さんの仕事は、最近では森岳寺や玉鳳院、淨明寺、西福寺などのほか、常盤小中学校も手掛けました。山梨や山形、仙台などにも行っています。
「常盤小中学校の融合空間棟は、自然木が多く、柱を組む部材の長さや直径、形状が全部違い、それを釘を使わずに正確に組み立てるのは、本当に大変でした。建築までの全てが苦労の連続でしたが、あとで悔いの残らない仕事をしたくて頑張りました。予算の制約や設計者の考えなどもあり、お互いに100パーセント満足することはなかなか難しいですが、完成した姿を多くの人に見てもらえ、やりがいのある仕事でした」。

危険!部材を抜いた工事
 宮大工が少なくなり、伝統建築物についての知識を持っているがいなくなってきました。伊藤さんは、設計士や棟梁でさえ、必要な部材が分からず、部材不足のままで確認確認申請が通った現場も見てきました。
「一般住宅を作っている人には、伝統的建築物の知識は不要かもしれませんが、価値のある建築物が風雪や地震に耐えて百年・二百年先まで残っているか不安です」。
『大工にとって、自分が作った建物が倒れるということは、命を失うようことと同じだ』と言っていた師匠の言葉を伊藤さんは、いまでも大切にしています。

伝統工法は技術の塊
 伝統工法にはさまざまな問題に対応した技術が集約されています。バランス、強度、姿、形などどれもその経験はほかの建築にも活用できます。一生かかっても足りないくらいの学ぶべきものがあります。
「新しい工法を否定はしませんが、目先だけの新しさに心を奪われた思いつき工法も多いと思います。新しい工法は、問題点をクリアしているのか、将来、予測外の問題が出たとき、どう対応し、誰が責任をとるのか。職人と呼ばれる人は、基本をきちんと勉強することを大事にしてほしいです」。

さつき盆栽
佐藤幸一郎さん

2カ月の花を咲かせるために
10カ月の努力が必要です
 佐藤幸一郎さんは40代半ばころからさつき盆栽を始め、自分でいろいろと工夫しながら、約35年もの長い年月の間、たくさんの盆栽を育てあげてきました。80歳となった現在でもさつき盆栽作りに情熱を注いでいます。
 さつきはおもに5月の中旬に花を咲かせ、2ヶ月ほど楽しむことができますが、そのために、毎日、木の状態を管理していかなければなりません。
「花をつけている期間は、わずかですが、そのためには常に木を大事にしなければなりません。例えば、今の時期は2、3週間に1度あるかないかの冬の晴れ間をみて、約80鉢もある盆栽に小屋の中で、たっぷり水を与えます。乾燥を防ぐ気配りと細やかな手入れが必要なんです」。

父親が大事にしていた花
 佐藤さんがまだ、若いときに、自宅の窓際には父親が大切に飾っていたきれいな花があったそうです。ところが父親が病気で倒れてしまい、その花を世話する人がいなくなってしまいました。そこで佐藤さんが代わりに世話を始めたのですが、花についてなにもわかりませんでした。その花を枯らせてしまっては大変だと思い、父のようなきれいな花を咲かせることを目標に、勉強に明け暮れたそうです。

木と対話しながら新たな命を
吹き込む
 さつきの盆栽には、最初は鉛筆のような細い小さな木から、やがて大きく立派な、あふれるような美しい花を咲かせる木へ成長させていくという楽しみがあります。
「人前に出せるようになるまでには約5年もの年月がかかります。きれいな花を咲かせるためには、決して焦ってはいけないし、じっくりと時間をかけなければなりません。自分の魂を込めている木が、日々少しずつでも成長していく姿を見るのは、子どもや孫の成長を見守っていく喜びにも似たものがあります」。
 盆栽は、木と心の中で対話をしながら新たな命を吹き込んでいく作業だと佐藤さんは思っているそうです。

生きててよかったと思える瞬間を求めて
「時間と手間をかけて丹念に育てあげたさつきがきれいな花を咲かせ、それを見た人に「いいですね、素晴らしいですね」などと言われると、何事にもかえがたいようなうれしさ・喜び・充実感を感じます。
 その花を見た人の心が和んだり、気持ちよく幸せな気分になってもらえれば、自分の苦労も一気に吹き飛びます。生きててよかったと思える瞬間がそこにあります」。

取材を終えて
 今回、取材にご協力くださったのは5人の職人さんでしたが、どの人の言葉も一言一言が心に響きました。それは表面的ではない、確かな経験に基づいた本物の言葉でした。
 職人が機械に取って代わられる時代。時代の流れと言ってしまえばそれまでですが、確かな技術を持つ職人が、活躍する場を失い、次々といなくなっていく様には寂しさを感じます。
 かつて、まだ、ものが人の手によって作られていた時代、職人は地域社会になくてはならない存在でした。地元の職人が作ったものを地元の人が使う。地域の中で、職人と住民が支え合う関係が成立していました。それは、当時、流通の仕組みや機械による生産が未発達だったからという理由だけではなく、昔の人は地域社会の成り立ちを理解し、「人を大事にする心」を大切にしていたのだと思います。
 食の世界では、地産地消やスローフードなどの言葉がでてきたように、地元のものを地元で消費しようという動きが生まれています。
 今回、紹介できたのはたった5人でしたが、能代には、まだまだ確かな腕を持った職人さんがいます。
 地域で職人を支えるとまではいかないまでも、この特集が、少しでも地域社会を考えてみるきっかけになれば、大変うれしく思います。

No.1067 平成17年2月24日発行(2)

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