のしろ逍遥(しょうよう)歴史と民俗のあいだ(76)
発行:No.1079 平成17年8月25日発行(12)
のしろ逍遥(しょうよう)歴史と民俗のあいだ(76)
戦士(二) 「赤坂・慰霊之碑」
赤坂の部落の中を通る道路に面して、一基の慰霊碑が建っています。昭和二十年七月二十七日の真昼時に部落の西方の山地に激突した海軍機に乗っていた兵士二十七人のなかで、十六人が戦死しました。その人たちの霊を慰めるために生き残った人々が建てたものです。墜落現場には石柱も建っています。
この海軍機は特命を受けて兵員を移動する最中でした。調子が万全でないダグラス輸送機を飛ばして鈴鹿(三重県)の基地をたちましたが、最初から左右のエンジンの回転に落差が大きく、途中小松基地に着陸して整備しました。それでも調子は回復せず、八郎潟の上空に差し掛かったときは、せめて東雲飛行場までと思いながら低空飛行を続けましたが、その直前で中沢の山中に激突しました。幸い一命を取り留めた負傷者は、能代病院の医者が手当てをしました。亡くなった人々へは浄明寺の住職がお経を唱えて供養し、もちろん地元の人々は救出作業や、機体の残骸(ざんがい)を片付けるなど懸命の作業をしました。
昭和四十七年に、慰霊碑が建てられ、命日には赤坂自治会の皆さんの世話で、生存者を中心に慰霊祭が行われています。(古内)
No.1079 平成17年8月25日発行(12)
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