のしろ逍遙(しょうよう)

発行:No.1076 平成17年7月14日発行(14)

のしろ逍遙(しょうよう)
歴史と民俗のあいだ(73)

馬の絵(十二)「上母体・八幡神社」

 上母体の八幡神社は中世末期に、檜山安東氏の再建にかかわる古い歴史を持ちます。檜山城の鬼門(きもん)(東北方向にあって鬼の出入りする門)を制する役を担っていたものと思われます。
 ここにもたくさんの絵馬が奉納されています。貞享(じょうきょう)二年(一六八五)に多賀谷隆経(たかつね)が奉納した白鷹・黒鷹の二枚は市の有形民俗文化財に指定されています。左にあげた絵馬は、明治二十九年に豊島後素(こうそ)が描き、小杉山兵蔵が奉納したものです。前回紹介した羽立八幡神社の絵馬より早い作品です。画題は川中島の合戦でしょう。戦国時代に越後(現新潟県)の上杉謙信(うえすぎけんしん)と甲斐(かい)(現山梨県)の武田信玄(しんげん)は二十四年間にわたって五回の大合戦をしました。織田信長が天下を取る以前のことで、この戦いで両者が精力を使い果たして、信長の天下統一は容易になりました。この戦いは武田氏の事績(じせき)を書いた『甲陽軍鑑(こうようぐんかん)』などから、物語的にもてはやされ、この絵馬にもその影響が見られます。上杉謙信の「謙信」の名は、仏道に入ってからのものです。従って左の絵の法衣(ほうえ)姿が謙信で、右が信玄です。蠹仙(とせん)も後素も武者(むしゃ)絵を学んだためこのような絵も描きましたが、一般世間でも軍記物は小説や講談などで語られ、身近な話題でした。(古内)

No.1076 平成17年7月14日発行(14)

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