のしろ逍遙(しょうよう)

発行:No.1081 平成17年9月22日発行(14)

のしろ逍遙(しょうよう)
歴史と民俗のあいだ(78)

力士(二) 「大蛇潟粂蔵(おろちがたくめぞう)」

 八幡神社の参道左手に、ひときわ高く聳(そび)えている「大蛇潟粂蔵(おろちがたくめぞう)之碑」があります。文字は堂々としていて鮮やかな筆致(ひっち)です。筆者は菅禮之助(すがれいのすけ)。雄勝郡出身で運吉・禮治・禮之助と続いた三代は、木材業・鉱業などの分野で成功した財閥(ざいばつ)です。特に運吉は明治維新後、木山方の材木場(現米代西部森林監督署)の土場を借り受け、井坂直幹来能以前の能代木材界に君臨しました。禮之助は文筆もよく、「錦島三大夫(にしきじまさんだゆう)の死」は大蛇潟の生涯を劇化したものです。郷土出身力士に肩入れしていました。
 大蛇潟は能代港町幸町の生まれで、明治三十七年に錦島部屋に入門し、四十三年に幕内に昇進し、関脇から大関に昇進しました。突っ張りと、左四つの組み手が得意で、強豪をなぎ倒して人気を得ていました。五扇山(ごせんざん)が入門した頃は大関で、五扇山はその錦島部屋に入門したのです。大蛇潟は不幸にして大正九年に病を得て現役を退きましたが、八代錦島三大夫の名を継ぎ、部屋の親方として後進の指導に努めました。藤里町出身の大関能代潟(のしろがた)、羽後町出身の前頭大蛇山(おろちやま)などを育てました。大蛇潟は昭和七年に大日本相撲協会の取締になるなど人望がありましたが、惜しいことに昭和八年五月に亡くなりました。碑は大火後の再建です。(古内)

No.1081 平成17年9月22日発行(14)

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