のしろ逍遙(しょうよう)

発行:No.1083 平成17年10月27日発行(18)

のしろ逍遙(しょうよう)
歴史と民俗のあいだ(80)

教師記念碑(二) 「土谷詮貞(つちやとしさだ)・土谷廣文(つちやひろふみ)」

 苅橋・常盤神社がある台地の隣の小高いところに、写真にある石碑が二基建っています。土谷(つちや)家は江戸時代中ころに医業を始め、詮貞(としさだ)はその三代目、廣文(ひろふみ)は四代目です。幕末から明治にかけて地域の医療に尽くした人たちで、詮貞は天保五年に塾を開いて子弟を教育したようです。写真の碑はその子弟たちが明治になってから建てたものです。苅橋・常盤・天内はこのような知識人が多く、それらの人たちは幕末期に国学が勃興(ぼっこう)すると、その方向に転じる人も多くありました。この地域には神道に傾倒し、死後は神道墓(しんとうぼ)に入る人も多くありました。
 土谷家の六代目雅貞(まささだ)は画業に向かい、寺崎広業(こうぎょう)の天籟画塾(てんらいがじゅく)に入って画家としての将来を嘱望されました。しかし病を得て早く没し、師の広業から追悼(ついとう)の書簡が寄せられています。
 今はひっそりと建っている記念碑ですが、土谷家は代々地域の医療や教育に貢献し、人々から慕われました。
 このような例はほかの地域でも見られますが、明治末期以降は、学校教育の普及や私塾の禁止などによって個人的な活動は衰微していきます。近代教育の欠点でもあります。地域社会にはさまざまな個性をもった人がいます。そういう人々から学ぶことは、大変重要だと思います。(古内)

No.1083 平成17年10月27日発行(18)

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