のしろ逍遙(しょうよう)

発行:No.1085 平成17年11月24日発行(20)

のしろ逍遙(しょうよう)
歴史と民俗のあいだ(82)

農林の記憶(二) 「吹越・西村長兵衛」

 吹越は米代川が蛇行(だこう)する舌状部(ぜつじょうぶ)にあり、絶えず洪水の被害に遭(あ)っています。しかし逆に考えると、米代川が運んでくる肥料分の豊かな土地であるともいえます。この碑文によると、嘉永元年(一八四八)生まれの長兵衛が、開墾中途で志(こころざし)を得ないまま没した先代の長兵衛のあとを継いで、開拓を企てたようです。そのころ吹越は十四戸が住み、耕地はわずか二町歩であったそうです。長兵衛は十七歳のとき、市五郎・吉左衛門・松太郎の同志を誘い、二十五年の歳月を費やして、二十町歩余の開田に成功しました。長兵衛は大正十年に七十四歳で没しますが、そのころは戸数も二十三に増えました。この記念碑は長兵衛の没後、大正十三年に坂本定徳の撰文、小助川学麟(がくりん)の書で建てられました。坂本定徳は日吉神社の宮司ですが、このころは能代高女(現北高)の校長を勤めていました。小助川学麟は明治大正期の西福寺(さいふくじ)住職で、歌道にも通じていました。
 この記念碑の隣にはもう一基の開田記念碑があります。昭和四十三年に市有地十五ヘクタールの払い下げを受けて開田を試み、昭和五十一年に三十八ヘクタールの開田に成功した記念碑です。自然に挑(いど)む吹越の人々の心意気を感じます。(古内龍夫)

No.1085 平成17年11月24日発行(20)

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