のしろ逍遙(しょうよう)

発行:No.1087 平成17年12月22日発行(14)

のしろ逍遙(しょうよう)
歴史と民俗のあいだ(84)

農林の記憶(四) 「中川原・野口伊治郎(いじろう)」

 中川原・稲荷神社に「野口伊治郎翁之碑」「越前彦蔵大人(たいじん)之碑」「藤田成房(せいぼう)頌徳碑」の三基が建っています。いずれも中川原を今日(こんにち)のように変貌(へんぼう)させた人たちです。中川原については開墾の歴史をたどらねばなりません。中川原はもともと米代川の河川敷でしたから、誰の所有地でもありませんでした。明治九年の地租改正のときに、第三種官有地に編入されました。しかし地味(ちみ)の豊かなところですから、誰となく開墾の手が入り、耕地に変わっていきました。ついに明治十八年に野口伊治郎を筆頭に二十六人が十六町歩の官有地拝借願を出しました。桑畑七町歩・畑作物植付地五町歩のほか、芋(いも)・楮(こうぞ)などの植付地を挙げています。町の有力者も後援しましたが、不許可となりました。しかし野口らはあきらめず、二十年には五十六町歩余の払下願を県知事宛に提出し、能代港町で県から無料拝借するとその小作権を得ました。その後も紆余曲折(うよきょくせつ)をたどり、昭和二十三年にその小作権が満期となって、ようやく農民たちの所有権が確定しました。その間の野口の活動が実ったのです。
 野口は万町の荒物商でしたが、中川原の養蚕業に着目して、運動に尽力しました。実直な人だったと言います。(古内龍夫)

No.1087 平成17年12月22日発行(14)

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