のしろ逍遙(しょうよう)

発行:No.1089 平成18年2月9日発行(14)

のしろ逍遙(しょうよう)
歴史と民俗のあいだ(86)

句碑(くひ)(一) 「島田五空(ごくう)」

 八幡神社境内の一画に石碑を囲った柵があります。その中に五空の句碑と、次回に述べる芭蕉の句碑があります。
 五空は俳句の革新をめざして、秋田の石井露月(ろげつ)らと交(まじ)わり、日本派俳句雑誌『俳星』を創刊し、今日(こんにち)まで続く基礎をつくりました。印刷業を始め、明治二十八年に北羽新報の前身『能代商報』を創刊し、近代文化を切り開いた人でありましたが、明治末期から大正期にかけては県会議員になるなど、政治的な活動をした人でもありました。その生涯は、常に挑戦的でありましたが、深い教養に基づいていて、説得力があり、同志からの信頼が厚い人でした。五空は、昭和三年十二月二十六日に亡くなります。死の十日ほど前に吟(ぎん)じた句が句碑となっています。
可(か)れ蔦(つた)と 細(ほそ)り行く身や かせの音 五空
 この夜は風が強かったらしく、八幡神社の松などが音を立てて五空の不安を募らせているようです。「かせの音」はそのことを言い、やせ細っていく我が身と、枯れ蔦を重ね合わせて、死期の近づいたことを、五空は感じているようです。神社の近くの十方庵(じっぽうあん)に臥(ふ)せている五空は、だんだんこの世から離れていく自分を、客観的に見ようとしますが、それは愚かな身には及びもつかぬ事である、と述懐して人生を閉じます。(古内龍夫)

No.1089 平成18年2月9日発行(14)

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