のしろ逍遙(しょうよう)

発行:No.1090 平成18年2月23日発行(22)

のしろ逍遙(しょうよう)
歴史と民俗のあいだ(87)

句碑(くひ)(二)「松尾芭蕉(まつおばしょう)」(八幡神社)

 松尾芭蕉は伊賀(いが)国(現三重県)の人で、京都で北村季吟(きぎん)の門に入り、のちに江戸に移って俳諧(はいかい)の新風を提唱して、蕉風(しょうふう)を確立しました。全国各地を旅行して紀行文を書き、蕉風の普及に新しい境地を開きました。中でも『奥の細道』は有名です。
 左の句碑は『笈(おい)の小文(こぶみ)』からとった句で、
具(く)たひれて 宿かるころや 藤の花   者(ば)せ越(お)
と読めます。原句は「草臥(くたび)れて 宿かる頃や 藤の花」です。芭蕉が貞享(じょうきょう)四年(一六八七)十月から翌年四月まで上方(かみがた)を旅したときの句を集めたものです。旅には、紙に渋(しぶ)を塗った防寒用の衣類、硯(すずり)や筆、昼弁当などを背負って行きます。四十四、五歳ころの芭蕉ですが、足も弱って思うように道が進まないと嘆(なげ)いて詠(よ)んだ句のようです。健脚をもって多くの紀行文を書いた芭蕉ですが、このように弱音を吐くこともあったのでしょう。 この句を選んだのは五空でした。大正十五年の建碑ですから五空も体力に自信がなくなってきたころです。そういう五空の心境が表れています。建碑をしたのは鈴木香雪で、能代詩星会の岸部千之・佐山仙光・平川豊秋の名が刻まれています。この詩星会の人たちはどちらかというと旧派(きゅうは)に属するようですが、日本派の五空との親交もあったようです。荒々しい男鹿石に豪快に書いたこの碑は、堂々として、美しくあります。(古内)

No.1090 平成18年2月23日発行(22)

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