発掘調査について

檜山城跡の発掘調査

 檜山城跡の発掘調査は、整備のための情報を得ることを目的として、古城地区を対象に平成28年度から開始されました。古城地区あるいは各曲輪への進入路を確認するとともに、城の構築時期や建物の有無や規模、土の堆積状況の確認を主眼に置きました。

 古城地区への進入路に関しては、現在も利用されている霧山天神脇からのルートのほか、沢沿いルート存在の可能性も含め、「三の丸」下の沢の源頭部を対象としましたが、明確な通路痕跡は確認できませんでした(第2・3次調査)。各曲輪への進入路に関しては、「本丸」・「二の丸」では門などの施設や硬化面などの通路痕跡は確認できず、いまだ明確になっていません(第4・9・10次調査)。「三の丸」では「櫓台」下で硬化面を確認できたため、曲輪への通路と判断しましたが、施設は確認できていません(第1次調査)。各曲輪を連絡する城内通路に関しては、「本丸」の南西下と南下で複数の硬化面を検出、城内の主要ルートであると判断しました(第2・3次調査)。明らかに古城地区への進入路にあたる地区東端の枡形虎口では、門などの施設は確認できませんでしたが、人為的な崩落とみられる痕跡を確認できました。虎口を構成する土塁については、場所によって盛土によるものと、地山を掘り残したのち盛土するという構築方法に違いがみられました(第3次調査)。

 曲輪内部に関しては、「本丸」では2棟の掘立柱建物跡のほか、多数の柱穴様ピット、竪穴状遺構、曲輪拡張のための整地地業(盛土造成)が確認されました(第4~8次調査)。「二の丸」では多数の柱穴様ピットが確認され、建物の存在が推測されるとともに、土塁の構築方法について知見が得られました(第4・5次調査)。「三の丸」では小規模な掘立柱建物跡1棟のほか、多数の柱穴様ピットが確認されました(第1・2次調査)。
出土遺物は、年代的には16世紀半ばから17世紀初頭が主体とみられます。時期差を考慮する必要があるものの、「本丸」ではかわらけ、坩堝や鍛造剥片の出土から儀礼空間や工房的空間の存在が、「三の丸」では茶器や坩堝の出土から応接空間を含む日常生活空間や工房的空間の存在が想定されます。また、「古寺跡」では、倒木跡の試掘調査で梵字が刻まれた笏谷石石碑が出土し、遺物からも宗教的空間であることが裏付けられました。

 調査では、戦時中の耕作や昭和30年代以降の公園整備による削平や攪乱も認められました。「本丸」では近世初頭までの堆積土が失われている部分が多く、「二の丸」では遊具による攪乱も見られ、層位や遺構の時期推定を困難となっています。

(「 」内は地元での呼称です)

「本丸」の調査

 「本丸」曲輪では、曲輪の中央から南側にかけて比較的に遺構分布が濃く、特に中央西寄りで柱穴様ピットが密に分布しています。ここで検出された掘立柱建物跡に関しては、2棟のうちSB76掘立柱建物跡は桁行5間×梁行1間で北側と西側に庇を持ち、方位はN-26°-W、SB77掘立柱建物跡は桁行4間×梁行1間で方位はN-25°-Wでした。2棟は比較的小規模で、位置が重なるので同時に存在したものではないのは明らかですが、切合いがなく新旧関係は不明です。SB76掘立柱建物跡は、染付や白磁、かわらけなど15世紀後半から16世紀前半頃までの遺物が出土したSKI07竪穴遺構を切るので、それ以降の年代が想定されます。 

 曲輪全体の遺物の出土傾向を仮に区分けしたエリア毎にみると、出土量が少ないエリアでは正確性に欠けるものの、概ね北東側のエリアで15世紀から16世紀までの比率が高く、南西側のエリアで16~17世紀以降の比率が高い傾向にあるようにみえます。遺構内からの遺物出土が少なく個々の遺構の時期判定が困難ななかで、ある程度遺構の分布傾向をも示していると想定できそうです。ただ、「本丸」での整地地業による曲輪拡張は、盛土の最下層付近からの胎土目の唐津皿の出土から16世紀末以降に行われたとみられますが、この造成時期が遺構・遺物の分布に影響している可能性もあります。なお、「本丸」内出土陶磁器類の種類別・年代別の出土比率は、円グラフのとおりとなっています。

(「 」内は地元での呼称です)